昭和四十五年一月二日 朝の御理解
御理解第三十三節
金光様の御信心を頂いて、えー、けれど、んー有り難い事を解らせて頂く事ですけれども、んーこの三十三節もどうも、金光様の信心は有り難いなーと言う風に、(あらいる?)受け取り、えー、又受け取られる感じの強い御教えでごさいますね。お供え物とか、お蔭は付き物ではないと、(一時の間)確かに、お供え物とお蔭は付き物ではない。けれども、お供えをさせて頂く心とお蔭は、絶対の付き物なんです、なのです。お蔭とお供え物は、確かに付き物ではありません。(声が小さいので聞き取れない)(一時の間)皆さん私がそう申しますと、皆さんがお解りなると(っしますが?)金光様の御信心はお供え物とお蔭は付き物ではない。けれども、お供えをさせて頂くその心とお供え物は、絶対放れないもの。(一時の間)(ため息)(一時の間)(せき)御理解三十三節を、今朝頂くにあたりましてね、その内容を頂きたいと、ただこれだけはもう、これだけの事ですからね。えーただ、ここで、えー、はー金光様の信心ちゃ有り難いなー、お供えせんでも、おー、お供えの事はただこう言われる信心じゃなくて、お供えとお蔭は、付き物ではないと。お供えせにゃ助からんぞと、言うような宗教ですらある中に、え金光様の信心な有り難いなとそ、その御用に頂いたらこりゃまあ非常に浅い頂き方で、それを少し解らせて頂くと、私が申しますように、確かにお供え物とお蔭は付き物ではない。けれども、そのお供えするその心と、は絶対付き物だと。そこまで、皆さん解って頂いたんですよね。ですから、このないようにも、もっと深い内容ついて、頂きたいと思うて頂きましたら、(次のに?)えー、御理解第八十二節の所を頂く(いたしお?)なこれちょっと読んでみましょう「大蔵省は人間の口を見たようなもので、その口に税金が納まらん時は、四分板張った戸一枚で(は)寝(られぬ、何故)ておられぬ。どこの太郎やら次郎やらわからんようにならうぞ」と。ここの所を頂くんですよ。ですから、私は、そこにヒントを頂いたんですけれども、教会という所はね、言うなら、神様がままになられるための場であり、教会はいわいる、御結界、皆さんがお供えをなさる丁度言うならばここは、人間の口を見たようなものであると言うようにです、神様の口を見たようなものだと言う事です。ね、神様の口のようなものだと。まそこで、その事の、についてです、そんなら、神様どんどんお供えろ、お供えせろと言いなさるのかと言うのでは、決してないから、ここの所には良く分かって頂きたいのです。
昨日、朝の御祈念を頂き、終わりましてね、えー今日は、あお正月、参拝者全部に御神米を取れるように頂きましたからね、御神米を全部に昨日下げました。所がです、だんだんお蔭を頂きまして、えーもう、朝の御祈念の方達がひときりついて、えーこれはいつもあの(くまがえ)さん(かばめ)さんが、あー一番バスで見えますからね、「畑野」さんがここでお届けをなされました。えー元旦、元日のお届はちゃんと(みつひ?)かけて、えー親先生の事と、御自分の事を大きな、あー(みつひ?)かかっています紙に包装してそして、それをお供えなった。そして、自分のお子さん達が五人おられます。孫達の事その全部の、お供えを、ここの(お祭りよし?)を使うて、えー御供えなっておりました。(そこに?)御取り次ぎをさせて頂いてから、その御神米を下げようと思いましたら、神様が待てと頂いた。どうした事か分からんですけど、待てと頂きますから、下げんのだろうかと思うて、頂きましたら、あの、言わば今下げることを止めようとこう。それで、あのとうとう「畑野」さんには御神米を下げずに、私は、それからまた後の方どんどん御取り次ぎさせてもらったんです。ですときりつきましてから、あー、朝のうちに、朝の分だけは、ごし、あの、お初穂を(しんぴ?)いたしますからね。整理にかからせて頂きましたら、何と「畑野」さんの五人のお子さんのガキが、お初穂を中が空なんです。まだ「畑野」さんは最後又、あそこで、色々あのテープを聞いて、んー、聞かれておられましたから、私は、「畑野」さんをここに呼んでから、実はね、今日私は、皆に御神米をこうやって下げよるけども、あなたの時だけが、どうしてもあの下げられぬ、までと神様から頂いたから、待たせていただいておった訳が今わかった。と私。これはいつもあるんです、ここでは、皆さんが慌てられましてね、それは決して、えー欲とかそげなっこちゃなかです。やっぱり、あの、お名前だけ書いてからですね、もう中入れたものとしてお供えされるのは、よくあります。えーですからそれを、もうそげんなさっておられると、同し事なんですから、私は、おあの、御供えさせて頂きますけれども、けどもその御神米の事になったところがあのまてまて、ところが、その、その五人のお子さん分だけが入ってない訳なんです。それで私は、私は、それは私は普通だから申しませんけれども、昨日そんな訳でしたから「畑野」さんをそこで呼んで、ここで申させて頂い事でございました。今日こうだったからねと。はー本当にご無礼しました、失礼しましたと。本当にどうしてもうか、うかつな事でっしょ、こっでした事でしょうかと言うて、御初穂を又それを持って御初穂されて御供えされてからです、先生御かげを頂して今日本当に(こうだい?)なお蔭を頂きましたと言われる訳なんです。いかに私どものような、ささやかなお初穂でもですね、神様が受けておって下さると言う事が分かったっち。そうですよね。お初穂が下がらなかったんです。ね、やはり(かや?)なものに、おつりは下がるはずありませんよね。おつりが下がらなかったんです。ね、やはり(かや?)なものに、おつりは下がるはずありませんよね。その、もう本当に正月早々大変な失敗をしましたけれどもです、失敗にました、いや事を本当に皆さんが、毎日毎日こうやってお日届をなさいます、お初穂なさいます、それがなんとう無しに、マンネリになってしまって、これはもう当たり前、もう言うなら(めんし)が悪うなようにしてから、そのお初穂を、まあそんな事をあるまいけれども、なんとう無しに、神様が受けござるじゃろうか、受けござらんじゃろうかくらいなこ、様なことも考えも無しに、お粗なえなっさておられますよね皆さんが。けれども、昨日のその「畑野」さんのその事から考えましてですね、なるほど神様が日々のささやかな私どものお供えではあるけれども、そのお受け下さってあると言う事が解らせて頂いたとこういう訳なんです。 ほんなこつね「畑野」さん今日はおかげ頂いたのと、(まあこの?)喜ばせて頂いたところであります。ん、してみると、お供えとお蔭は付き物ではないと言うのは金光様のご信心の、まあ言うならちょっと簡単のごたる感じがします、はーもう金光様の信心するとお金がいらんですよ、お供えとお蔭は付き物じゃないですけんでと言ったような事を、(へいぎ?)にただ、この、あー、御理解の中からですね、お供もんとお蔭は付き物ではないぞと、たったそれだけの御教えですけども、だから、そこだけ頂いたら大変だと、けれどもそのお供えをさせていて頂く心とは絶対付き物だと。ね、しかもそれはです、どういう事になって来るかと言うと、あ、御理解八十二節の、言わば、これは、あー、人間が税金を納めていくと言う事、大蔵省は人間の口のような物だと、言う意味から頂きますとですね、御広前という所は、神様がままになられる場であると同時に、ご結界で皆さんがお供えをなさる、ここは神様の口を見たような物でと言う事になる。ね、最後にどこの次郎やら、どこの太郎やら次郎やら分からないように成ろうとこうおっしゃっとる、税金を納めなかったら。というようにです、ね、私どもの、例えばこうやって真心のお供えというものがです、ね、ん、それこそ、どこの太郎やら次郎やらではなくてですね、そこん所は、ね、いかに神様がきばんなさった所で、神様が、ね、ままになりなさる、神様の願いが成就していく事の働きにならないと言う事になるとです、ね、それこそ、どこの太郎やら次郎やら分からんという言うような結果になるわけなんです。ん、「畑野」さんがその事のお取り次ぎを頂いて、ご神米を受けられて、もう本当に今日は有り難いとこが解らせて頂きました。実は、私は、私、先日長男が久留米でガラス屋をやっています。私は、に、私は申しました。何かの事から、いわいるその信心に、んー、お金はいらないと、言ったような話からだったんでしょうか、いわいる信者の一等、とにかく真心さいこもっとればと言う話が出た時にです、私は単に申しました。「渡辺」さんそげなけちな考えなど持ちなさんな、って私が申しました。親先生はね信者の一等が素晴らしい。けれどもね、長者のマントはもっともっと素晴らしいとおっしゃるですよち。おけげを頂いて長者にならにゃいかんですよち。長者にならせて頂いて、本当に思いを込めさせて頂く、頂いての、長者のマントがお蔭頂けるようにならにゃいけんと言うて、私に話しましたという訳です。ね、神様は、なんぼ食べても、なんぼ食べられても、なんぼでも頂きなさる。ですから、なんぼでも、なんぼでも、ね、お役に立たせて頂けれる、おかげを受けなきゃなりません。ただそのお蔭がね、見得とか、ね体裁にだしては勿論なりません。その、この様な事では相すいませんけれども、この様な事では相済みませんけれどもと、ね、そういう思いが込められての、私はそれになってこなければならんと思うのです。私はいつも思うんですけれどもね、「ひさどみ?」先生が、あの、ご祈念をなさる、あー有り難いご祈念、ところがその、おー、(天津祝詞?)を上げられます時にね、もう何か、まあ声が悪いなというのでなくてから、もうあげな声しか出らんとじゃろうかと、なんか潰れたような声ですよね、先生のせ。それがね、発声法を心得てないからですよ。久保山先生あたりのあの、もう浪々たる、あの、大ばらいなんかそういうされますとね、もうあれを聞きとって有り難うなるような気がいたしましたでしょう。ね、いわいる、発声法を知らない、ここでご祈念をなさっておる人達は皆そうです。だた、それでも一生懸命やんならんからと思うから、もうこの辺からばっかり出しよるから、いわいる、声が潰れたよう、それこそ「え゛ー」ち言ったような声になってしまう。もう腹の底からの発声法を学ばにゃいけません。これは、おうたい何かをやりますとですね、それが出来ます。私、信者あたりがやっぱり本部でその発声法(きとう?)を取りますから、もうまるっきりマイクの、おー、を通してから流れて来るような声が出よるでしょうが。うたをうたわせたら、あー上手かとき、そうでもないです。けれどもですね、いわいる発声法を心得ておるから、それこそ、どこから出るじゃろうかという(浪々?)とした声が出て来るのです。ね、だからこの、発声法という事をですね、本気で勇気を出さなければ出る事じゃないです。本当の腹の底から上げる、例えば、声というものですね。例えば、これは、あーお歌にしても、(ながおた?)何かにいたしましてもそうです。発声法をまず体得せなければ、声は出やしません。ね。ですから、皆さんご祈念なさる時でもですね、本当に、あのー、例えばね、周囲どんの考えよるような事じゃ、絶対声は出やしません。もう腹の底からですね、腹の底から上げる稽古しなゃいけません。そこからですね、本当にこれが自分の声だろうかと言うような、よい声がどんどん出て来て、なるほど(いちおう?)は潰れます。潰れますけれども、その後は楽に楽に出るようになります。天理教に「恒岡?」という有名な先生がおられますね。博、あ、福岡におられます。そしても全国でも大変有名な、あー先生ですね。その先生はですね、非常にお話が名人です。と同時にですね、この人の声は涸れた事がないと言わえれておる。東京の(ひび?)や公会どのあの広い所でですね、マイク無しに話されるのはあの人だけだ。しかも、二時間話しよる時、三時間めはもっと声が出て来るち。ですから、これは天理教の生き方ですけれども、私の声と同じだ、出せば出すほどなんぼでも出るんだと言う事を言われる。これはまあ、天理教の生き方がこういうこの辺がと全然違いますもんね。金光様の信心はお供え物とお蔭は付き物ではないけれども、天理教はそうでないです。天理教は、例えば、病気をするならば、この病気にはいくら上げると良うなるといったような事を平気で言われますですね。それには、やはりやっぱ天理がある事なんですよね。ですから全然違います。違いますけれども、なら金光様のご信心はですね、金光様のご信心は確かにお供えをしないでもお蔭を受けられます。けれども、求められるのは真心です。ですから、(にわのちりば?)でも良いとおっしゃるのです。(何もちょうど良いか?)それは、(にわのちりば?)でも良いとです。十円のお賽銭でも良い。だけでも良い。それに思いを込めようと。お初穂もお供えの出来ないある方が、ね電車にも乗れん。電車賃も無い。その人がですねしかし、あのー御参りさせて頂いてから、本当に何もお供え出来んのは相済まんと、まあ自分でここ考えられたんです。(はまずたい?)にずっと歩いて来る時に、もうその歩いていくうちに一番きれいと思う(こいしょいっちょひら?)ひらわれて。それを、手洗い場のるこうできれいに洗い、きおめてそれを、おさしみ替わりにお供えして、このようなお蔭を受けたと言う人があります。なるほど、(にわのちりば?)でも良い。思いを込めてのお供えなら。だから、その問題はね、お道で求められるのはその思いが、を求められる訳です。けどもまた今日のご理解を頂きますとですたいね、大蔵省は人間の口のような物であると同時にです、御広前という所は神様がままになられる事、為の場だ、言うならば。信者がお蔭を頂く場ともいえるけれども、神様がお蔭を受けられる場なんだ。神様がままになられる場なんだ。ね、その神様がままんなられれる、言うられば御結解はだから神様の口を見たような物でと言う事にもなる訳なんです。ね、神様がです、ね、そして神様がいえるこの人間の世界にです、ね、(のぬような?)働きかけをしてくれるかという事。、ね、氏子の一人一人が御蔭を頂いて行く事の為に、まず神様がままに成りなさらなければならない。言わばそういうシステムになってるんです。信心の御蔭の、と言うものは。ね、神の願が(ちじょうになる?)それはです、人間と神様とのあいよかけよの働きがなからなければ、神様の願いが(ちじょうに?)成る事が出来んのです。だから、氏子頼むぞ、氏子願うぞと言うことに成ってくるんです。ね、ね、ですから百円の、例えばお供えをさせて頂くよりも千円のお供えがでけれると言う事になるで、成りますかね。百円にかけるける真心と、千円にかける真心というのは違うでしょう。そう言う所も私は稽古しなければいけない。それには、その発声法をですね、学ばなければならないと言う事です。この辺からだしおった声はですね、いつまで経ってもいつまで経っても一生(じごごえ?)です。のどから出す声は。ですから、発声法を覚えますとですね、もうそれこそ、(恒岡?)先生じゃないけれども、二時かめんよりも、二時間目よりも三時間目の方がよう声が出るち。出せば出すほど出るのだ、声は。ところが、普通の人は出せば出すほどかれて来るというのが普通でしょう。お供えでもそうです、ね、この辺から出しおるから、お供えしたら、お供えしたがた、ころっと少のなっとる。ね、そういうお供えじゃだめなんです。お供えをさせて頂けば頂くほど、お供えがせざ頂くほどです、いわいる、だんだん出来れば出来るほど大きく限りなく続けられるおかげの受けられる、おかげを頂くためにです、ね、発声法を稽古せないけませんです。ね、皆さんが大きなおかげを頂きたいと思う。同時に、無尽蔵、それが限りなく頂けれるおかげなら、まだよかと言う事でしょうが。ね、それにはね、いっぺんこののどを潰すくらいな、そこから私は、ね、腹の底から出させてもらう声が、限りなく良い声であると同時にです、一時間目よりも二時間目と言うように、だんだん素晴らしい声が出て来るようなおかげ、かれる事のない声がね、尽きる事のないおかげを頂くためには、どうでもここの所を分からんといかん。御理解三十三節、「お供え物とおかげはつきものではないぞと」だから、それだけをですね、金光様は信心ちゃ有り難い、お供えもんせんでん参られる、なるほどお賽銭十円で参られる、いーやお賽銭もいらん、参るだけなら、ね、それこそ言うならばただででも参られるとこう言う事。なるほど、一瞬を立てて拝みゃです、おかげは受けると言う事。この事について、久留米の初代がね、ね「から願いをするな」と弟子達に教えておられるんですね。昔は、そんな(のずう?)もあったらしい。ね、なーにも御供えする物がございませんからと言う、老婆に対してですね、「御野菜一本でもよし、なかなら漬け物一切れでもええ」とおおしゃった。ん、家にたくあんぐらいは漬けちゃろうもん。ね、そして、弟子達にはね「から願いはするな」ておっしゃった。ご無礼になるて、神様に。ね、「御供え物とお蔭はつきものではない」けれども、そのお供えをする心とお蔭はつきものである。ですからその、お供え物には決してふじゅんなもの、不浄がかかっては勿論ならん。ね、金光様のご信心は確かに信者の一等的な、言わば信心ではなくて、長者のマント的なお蔭を受けることを神様が(こよなく?)喜んで下さるだけではなくて、私どももです、ね、限りない長者の徳を身に付けていく事の出来れる信心だと。それには、どうでも発声法を稽古せなければならない。ね、言うならば、出す稽古を本気でしなければならないと言う事。皆さんどうぞそこん所をですね、もう汚い(ふん?)でも取って下さいますな。親先生があげんお供えん事ばっかり言いなさってなんてん思うて下さいなさるな。ほんなこつなら私の方が挙げたいくらい。は、けどもそれではね、あなた方がね限りないお蔭につながる事が出来んのです。ん、御理解三十三節の参照として頂きました御理解八十二節からです感じる事、なるほど御結界は神様の口を見たようなものでと思わせて頂くな、いけません。しかもなら皆さんがです、そうやってなら、ね、例えば百円のお初穂一つでもです、決してそれがマンネリになちゃならないと、思いを込めて、相済まん事だ、こんな事では相済んませんけれどもと、それをやはり思いを込めての物でなかなきゃならないと言う事。しかも、皆さんのそうしたお供えをですね、神様がいちいちお受け取りになっておるという事実をね、昨日私と畑野さんとの、ね、空ば、お初穂の、中に入れてなかったと言うその事から、はー本当に神様がですね、正月早々この様な失敗をさせて頂きましたけれども、私者の、あーなー、わずかばかりのお供えでも神様が受けておる、ござるという事実をです、今日は分からせて頂いたと、畑野さんが言うておられますように、絶対のもんです。間違えないです。(ひとあじでも?)無駄にはさせんとおっしゃることが、十円だって、これこと、これが神様にといいて向けられたら、無駄にはさせなさらんです、神様は。ね、それも私が今日、ね、発声法の道理、理を持って皆さんに聞いてもらいました様にです。ね、例えば歌を歌うでも、これから御祓いをあげるでもです、ここから出す御祓いだったら一生かかったちゃそれだけです。ね、ですから一つ本気でですね、朝の御祈念なんかもう一生懸命、明日若先生が、あ、せんしょうして、しますから、あれについて、女の方でもそうですよ、発声法を一つ本当に、いー、体得してですね、ん、それこそ浪々とですね御祓いがあげられる御かげを頂いたら、なるほど一事はかれましょう。かれますけれども、その後には、言えるお祓い声と言うですかね、それがずーとおうたえする人はおうたえ声と言いましょうか。その声がです、自分でも聞き取れるような声が、限りなく、かれることなく、出るようなものなんです。ね、これはもうものの道理ですから。間違えが無い、道理というのは真理なのですから。本当の事なんです。嘘じゃないです。私は皆さんから、どれだけお供えを頂いて、どれだけ私が食べたり、飲んだりいたしましょうか。こげな山と詰まれた例えばお供えでもです、この中のほんの一部部。私どもは、ね、二回しか頂きませんも。一食はお茶が湯さんですもん。ね、皆さんから求めて、さあ御米ば持ってこい、魚を持ってこいて言わんでんです、ね言うた所で食べきらんですもん実際は。けれども私はお蔭を取り次がして頂くと同時に、信心を取り次がせて頂くのだから、私は今日皆さんに、今日御理解この三十三節から、ね、そういう事を聞いて頂きました。御理解八十二節。だからこれを合わせて読んで、そのみ教えのもう一つ向こうにある深さに触れて頂きたいと思います。ね、ですからお供えは決めるな。またお供えは減らすなと教えれおられます。じ決してもうお供えは百円と決めちゃならんていう事です。ね、かと言うて厳しいですね、決してへらしどんするなと神様はおっしゃっとる。だから、これがだんだん百円が五百円、五百円が千円と。ここに御かげを頂いておられます、えー日奈久のおー、まあ教会名まで申し上げちゃちょっとおかしいですけどね。えー、そこの先生、もう本当に長い間布教(取材が?)長かったです。ここでだんだん御かげを頂かれるようになられたらです、本当にここ流儀になってきたんですね御供えが。第一、御夫婦とも大変お神酒が好きですが、んーお神酒のお供えが(かがさん)ごつなって、つい、えーこの頃は、あー、小さい、小さい教会だそうですが、そこを「矢口?」さんから(追い立てられ?)なさってですね、お願いごと、御取り次ぎを願うておりました。そしたら今度は、あのほんの町の、おー、に、ちょっと町が悪いけれども、(かんせん?)な所にね、立派なお家を借り受ける事ができられた。そこを改造して今度は立派な教会が出来たというてお礼参拝に見えられました。それにはね、次々出来る信者がです、もう合楽流つってから喜ばれるんです。(このごのだいさんに?)その方が一緒にお供して参って来てる、まだ若い青年ですよ。(日に一万員一粒なるそうです?)(笑い)ね、ですからあーた、もうその、おー、家を改造したり、か、こうたいづつもう本当に出来て、お蔭で総代もそろうてから教会にもなりました。長年教会にならなかったんです。そして、その人がですもう、もう限りなく覚えを受け取る訳ですね。ありゃもう、おの、その方の人の話、旅の話を聞きますとですね、しかし、本当に神様のご都合、だから先生、こういうお供えを私は受けさせて頂きよるが、どういう心がけにならせて頂いたら良かろうかっち言うて、この頃、お、お伺いされるんです。自分もびっくりしておられる訳です、先生自身も。ね、ですからね、大きな御用が出来る。ね、問題はそこに、その人が慢心をおこさんように。ね、本気で、あの、神様にお取り次ぎさせて頂きよないかんですね。て言うてからもう話た事でございますけれどね。ん、ですからお互いがね、もう本当にそこに焦点を置いてさい、置いたっ、置いたっちゃ良いくらいです。ね、去年の百円どしかお供えできませんでしたから、今年は、どうぞ二百円ぞお供えが出来ますようにというて願うちゃったいいです。来年などぞ三百円お供えができますようにと、言う願いをかけさせて頂くならばです、ね、私は、今日の様な御理解を本当に分からせて頂いてその発声法を学ばせてもらう。そして、限りなく頂ける所のおかげを頂いてから、始めて言わば、ね、教団が活発に、ね、人が助かる事のための働きに後継さ、される事が出来られる。教会機能が十分に出来るようになる。いわいる、神様がままになられるという事の働きがそこに出来る訳です。皆さんがお供えなさる、そういう教会機能の原動力なんです。ね、皆さんが例えばお供えなさったから、私が贅沢するとかゆけた、ゆけたぶんとか、ゆけなむとか言ったような事じゃない。ん。どうぞそと皆さんそこのん所をですね、そそ、体得されましたら、信心がいよいよ有り難いものになってくるだろう。ね、勿論その内容として求められるのは、最近私が申しております、天地日月の心になること肝要だっと言うような信心をもとにして、願いの焦点がです、どうぞ、ね、去年よりも今年、より御用の出来る、お役に立たせて頂けれる、私にならせて下さいという願い、願いをかけたらその稽古にかからないかん。本当の発声法を一つ心に、その発声法を体得する。もう同ーじで良いですよ。ね、ね、自分の給料取るじゃけん、あっちゃ商売にでけんっちう、絶対そげな事はなかです。そこからもう不思議な、不思議な働きが生まれて来るです。ね、そこん所を、私はこの三十三節から頂きたい。金光様の御信心すりゃお供えはいらんと言ったような、言わば、低い考えからですね、正しい信者の一等よりも、まんじゃの、いや長者のマントを、のおかげの頂けれる私にならせて頂く事の方が有り難いですね。どうぞ。